サン福山

琉装、和装着付け体験

6月9日の記事

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昨日、スタジオに来られた、首里城までのお散歩二時間コースをご希望なされたお客様。実は、四、五日前にすでに予約をくださった方で。其れも、長身の俳優さんばりのカメラマンらしき男性とのご同伴でした。其れに、女性のかたが、かなり色白なので、観光客かと思いきや。なんと、女性は地元で、男性も五年ほど前から うるま市のほうに住んでおられると聞き その関連で不思議な思いに駆られたことは。実は、その日の前日には具志川に行っていたからなんです。と申しますのも、私は日ごろ、住まいと仕事場の往復ばかりでですのでよほどのことが無い限り滅多に遠出はしませんが。其の前日には、実は、私の中学時代の同期だった者の告別式があってその法要の為に具志川に出かけていたからなんですね。ここでその時の話を少し。その日は、当然、もう一つの同期会のようにして昔なじみの同期の仲間が幾人か集まりましたから。それに、その中には、態々、石垣島から駆け付けた者までいましたからね。その様な中で、やはり、みんなの口に出るのは、石垣島時代の苦労話ばかりでしたけれどね。それほどに皆が口にする理由は、裏石垣と云われる 云えば、いとな集落から兼城や野底辺り。更には、垣島島の北部一帯には、敗戦後の昭和ニ五、六年ごろ食糧難を乗り切る為として。所謂、当時の琉球政府により沖縄本島や宮古島から募った開拓移民団が我々の親たちだったからなんですね。然し乍ら、石垣島開拓は想像を絶するもので、マラリア原虫根絶すらままならない中での困難を極め行政からの支援の一切ない中での険しい現実に見切りをつけて其れもようやく復帰後、其々の出身地に戻るケースは今尚後を絶たない状態にありますが。また、長年、琉球時代の歴史とその実態を研究している私から見れば。そこに、、集中的に、特定の場所から人を移動させる必要があったのか。全てがつながる。それも、戦前から今につながる沖縄の実態が見えてきたようのありましたが。
失礼いたしました、話を戻します。本日掲載お写真のお嬢様いかがですか。うちなーカラジのよく似合う、かわいらしい方ですよね。それに、控えめで優しそうなところがとてもいい印象的ないい感じのお嬢さんでしたよ。それと、本日、お嬢様がお召のお着物。実は、スタジオ内は、夏物にすっかり衣替えがされていまして。そのお着物も、男物の背広で言うならば、〈背抜き)といわれる涼しさを考えたお着物に仕上げてありますので。今日のお客様も、二時間お散歩から戻られた後にも、(締め付けが無い分、全然 楽でした。それに、帯が無い分、浴衣より涼しいかもしれません)。と喜んでいただいたことは。私の願い通りの結果だとホッとしています。実は、沖縄は、半年以上が夏物で過ごす土地柄でもありますでしょう。特に夏場の厳しい時期を、琉球古来の琉装衣装を楽しみながら沖縄観光を楽しんでいただく方法はないものかと。試行錯誤で考えての作品なんですよ。ぜひ皆様にもお勧めいたします。其れと、残り一枚の、創作襦袢を仕上げたら。襦袢、中込みが全部仕上がることになります。後は、打掛五枚を仕上げればすべて完成です。早いうちに前撮りができそうです。それに、ずっと考えていた大人用と子供さん用のお揃いの打掛のお着物も早く仕上げたいですね。いいスピードです、頑張りますよ。では今日はこの辺でまたね。バーイ
追伸、琉装体験に来られた中国の方から、思いがけず素敵なプレゼントを頂きました。そのエピソードも次回にお伝えしたいですが聞いていただけたら嬉しいです。では。

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